挫折と頑張り

3年前の冬、大学一年生だった私はゼミの入室試験に落ちてしまった。

考えてみれば私の初めての挫折であった。

今までなんだかんだ第一志望の高校に受かり、なんだかんだ志望していた中のそこそこいい大学に受かっていたので、試験で落ちたのはこれが初めてのことだった。

 

その教授の授業もとても好きだったのだが、何よりも考え方が好きだった。

ゼミ入室試験の後には、多くのゼミが祝勝会という名の親睦飲み会をやるのだが、そのゼミの教授は祝勝会をやらないいう。

 

「このゼミに受かったことが”勝ち”とは限らない。

落ちたことが”負け”ではない。このゼミに落ちたことで、また違う”勝ち”が得られるかもしれない」

 

ゼミの説明会に行った時の教授のこの言葉を今でも覚えている。

倍率の高いゼミ試験であったので、ひたすらに勉強した。

教授の本を読んで、授業を熱心に受けて。でもそれが楽しくて仕方がなかった。

 

周りの友人も、私がその教授を慕っていることを知っていたので、「あなたならゼミに受かるだろう」とまで言われていた。

 

結果としては試験に不合格になってしまい、ゼミに入室はできなかった。

発表を一緒に見ていた友人が慰めてくれた。

なんとなく好きな人に振られたような、自分の努力の方向性が間違っていたような、何とも言えない心の沈みを抱えて帰路に着いた。

 

LINEで高校時代の友人に連絡した。

 

「ゼミ入試落ちた。

不合格になるのって、思ってたより辛い。」

 

間髪入れずに、お疲れ様、と友人からの返信。

その後に来た彼からのメッセージで涙が零れた。

 

「それだけ頑張ったってことでしょ。」

 

と。

今までの頑張りは間違っていなかったと肯定してもらった気がして、私は東急線の電車の中嗚咽するほど泣いてしまった。(そして電車を途中で降りた。)

 

なんでもない慰めかもしれないが、

言われた人、言われた言葉。そのすべてが刺さって心を癒してくれた。

試験直後に一緒にいた友人よりも、帰宅後に会話した親よりも、何よりもその友人の言葉が忘れられないくらい救われた一言だったと思う。

 

浮気とつまみ食い

周囲の男性に浮気は「つまみ食い」だと称する人が多い。

 

特定の彼女を持っていても、恋愛感情を持たず他の女性と遊び、セックスをするのだ。

彼らの言い分は、「米ばかり食べてると飽きるから、たまにはパンとか麺とか食いたいやん?」だ。

 

知らん。

 

私の考えとしては、浮気(というよりも他の女性とのセックス)は性病貰ってこないのと本人にバレないのであればいいんじゃないかというものだ。

これは第三者視点での私の考えであり、実際自分が浮気されていたらそれはそれで嫌なものかもしれない。実際に浮気バレを経験したことがないからわからないが。

 

ただ、一つ言いたいことは浮気の正当化をしている彼らの発言に問題を感じるのだ。

単純につまみ食いと言うのは簡単だが、その同じ発言を今の彼女に言えますか?

浮気をする行為は、本当に正しいものなのでしょうか?

そう問いたくなる。

 

そもそも不倫で慰謝料云々と世間を騒がすニュースが飛び交っている時点で、一般的に浮気は許されるものではないのに。

その行為を正当化されてしまえば、彼女側は何も言えない。自分に対する愛は変わっていないという前提で話が進められてしまっているから、そこについて咎める事を難しくしている。

 

遊びたい年ごろなのも構わない。

バレなきゃセックスしても構わない。

周りのカップルの彼氏サイドの話をきいていて、彼らにはこう言い直してほしいと思う。

 

「確かに浮気は悪いことだし、申し訳なく思う。でも今だけ遊びたいんだ」と。

自分の罪を認めず、つまみ食いしたくなるのは当たり前だという論調で話されれば、こちらも歯切れの悪い回答しかできない。

こう罪を認めてくれれば、多少なりとも同意できる、そんな気がする。

就職活動と鬱

夕方、目の前を通り過ぎる電車を見つめて、漠然と死にたいと思った。

正確には「生きたい」という欲求がないと思った。

このままこの線路に飛び込めば確実に私は死ぬことになるのだが、それをすることによる影響を考えると足を踏み出すことにはならなかった。

 

「痛いのは嫌だな」

「電車の遅延にもなる」

「家族に莫大な金額の請求が鉄道会社からくるのかもな」

 

そう思って飛び込むのをやめた。

誰にも迷惑をかけずに死ぬ方法を考えて、なんだか不毛な気がしてそれもやめた。

 

自分でも心が切羽詰まっているんだなと考えて、この考えを疲れのせいにした。

誰もがこんな感じだと。もっと言えば私よりも切羽詰まっている人間はいるわけで、私だけが辛いわけではないと。

 

LINEを開けば友人からのメッセージ。たわいもない話に、今思っていることをありのままに綴れば「美味しいものでも帰りに買って、おかずに一品足したらいい。少しでも幸福感を得て。」と返信があった。

 

駅ビルの総菜屋さんに立ち寄ってフロアを一周するも自分が何を食べたいのかもわからない。朝から何も食べていない。お腹がすいているはずなのに空腹感がわからない。

お肉が好きだから、と唐揚げや焼き鳥を眺めても店員さんに「これください」が言えない。人と話すのが億劫だった。

仕方がないのでコンビニに立ち寄ってみる。商品を手渡すだけで会話が殆ど必要ないからだ。

そこでも何が食べたいのかわからず結局そのまま帰宅してしまった。

 

そのことを友人に話せば「買い物ができないのは鬱の初期症状だと思うから、時間がある時に精神科なり行ってみたら?」と。

 

初めて本格的に鬱の心配をされた。

うつ病に対しての偏見も何もないが、父親は「うつ病は甘えだ」という考えの持ち主だったために、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。

考え方や、すべての活動におけるやる気の有無。簡単に言ってしまえば、私は普段からかなりの情緒不安定っぷりを友人たちに露見させている。

 

こんなにも情緒不安定になるのは原因がいくつかある。

 

まず一つは自分の価値を他人にすべて委ねてしまっているところ。

相手に必要とされたい、使える人間だと思われたいと強く思うが故に、他人に否定されることにひどく傷つく。それが「自分は何の価値もない人間だ」と考えてしまうことに繋がるからだ。

自分の価値を他人のものさしでしか測れない。そのものさしは接する人によって違うのに。だから自分の価値を見定めることもできない。どんなに誉められても、いい言葉をかけてもらっても、自分は頑張ってるって自信を持っていうことができない。

 

そしてもう一つは論理的でありたい自分と、感情的である自分が同居してしまっているからだ。

人の行動を分析して、相手の反応や考えを読むことが私にとってはとても重要で、コミュニケーションを図る上で必要なことだと思っている。

だから考えの裏付けをしっかりしたい、自分の考えを相手にわかるように伝えたいと考える。

しかし、全く筋の通っていない自分に対する意見・批判を面と向かって言われればまず初めに思うのは「お前に私の何がわかんの?」だ。

もちろん言われた後にその言葉を反芻して、そこで相手の言葉について分析する。

だが「頑張ってない」「努力が足りない」と抽象的なことで批判されれば腹も立つし、それが自分のことをあまり知らない相手に言われればなおさら「何がわかんの?」といった気持ちになる。

論理的な自分のインパルスは鈍足も鈍足で、感情的である自分は脳内神経をマッハで駆け巡るのであった。

 

 

ここで、私は二つ目標を設定したいと思う。

一つは情緒不安定をなくすための方策を考えること。

もう一つは自分の考えが醸成されたきっかけを知ること。

 

 

このブログは不定期で私の考えについて綴り、目標達成のために頭の整理をしていくことを目的としています。

就活、バイト、恋愛、友人、家族、周りを取り囲む環境で、何が一番つらいのか。私にとって大切なものは何か。自分の価値とは何か。

本来頭の中だけで考えるであろうことを、文章化することで明確にしていきたいと思っています。

同じ境遇で悩む人、私のような考えに反対の人、ご意見ある方はコメントにお気軽にお書きください。(もっとも何の検索ワードで私のブログにたどり着くかは全くの未知数ではある)

 

普段はお気楽大学生やってます。